--- 「脳の輪読会」の歴史 1986-2000 ---

篠本 滋 京都大学理学研究科 

 2013/01/08 version 3.3.11997/12/10 version 1.0, 2001/11/08 version 3.3

十年以上も前から、この物理教室のなかで脳科学の本を輪読する会がありました。この会は強制力も持ちませんし、参加して報酬が出るというわけでもありませんでした。そもそも物理教室でこのような類の本を読んでいてもほめてくれる人はいません。また輪読会に参加するのは時間を使いますし、輪読の順番が回ってきて準備をすることはもちろんめんどうなことです。だからこの種の輪読会が何年も続いたということ自体、不思議なことだと思っています。参加者の好奇心の強さと、会の楽しさを証明するものといえるでしょう。十年前の記憶は薄らぎはじめていますので、思い出せるうちにその歴史をすこしでも記録しておきたいと思います。

--- 第一期「脳の輪読会」 ---

ぼくが基礎物理学研究所でゴロツキをやっていた頃に、蔵本由紀先生が物理教室のなかでジョーン・エクルズによって書かれた神経生理学の入門書「脳 -その構造と働き-」の輪読会を始めていらっしゃいました。1986年頃だったかと思います。ぼくは当初は熱心な参加者ではありませんでした。正直言って何のためにこの勉強会をやっているのかよく分かりませんでした。輪読会があることを忘れて休んだこともしばしばありました。そのころぼくは神経回路網の数理モデルを研究しはじめていましたので、関連の事実ということで基本的には興味は持っていたのだとは思いますが、特に目的意識はなく、ぼんやりと参加していたように記憶しています。意外なことに、その後ぼくはこの本で学んだことを理論モデルに取り入れて論文を書きました。だから結果的にはその輪読会の恩恵に浴したのですが、当初はそんなことは想像もしませんでした。

エクルズの本を読み終わると、もう少し詳しく学びたい、ということでステファン・クフラーらの「From neuron to brain (2nd ed.)」という本に移りました。1988年頃だったかと思います。視覚系の経路やその機能に関する記述がおもしろくて、だんだん引き込まれていったように思います(ところでこの「From neuron to brain」は現在3-rd ed.となって内容もずいぶん様変わりしましたが、内容的には2nd ed.のほうがおもしろいように思えます)。この時点でもしかし、ぼくはまだぼんやりした参加者だったのですが、幸いほかに熱心な人が多く、輪読の順番にまわって苦労することもあまり多くなかったので、ただ単にその会にいって話を聞いて、楽しい議論に参加してるだけでよかったのです。

このように神経生理学の本が続いたので、ぼちぼち趣向を変えてみようかということになり、ピーター・リンゼイとドナルド・ノーマンによって書かれた「情報処理心理学入門」に移りました。1989年頃だったかと思います。これはなかなか良く書けている本で、その中に出てくる心理学実験などをやったりして、大変楽しめましたね。輪読の順番に当たっている人が、他の人を使って心理実験をしたりしました。セミナー室は、笑い声が絶えず、ときには「おう!」「おお!」などと叫び声があがる、というので他の研究室からは変な目で見られていたようです(今だってそうですけれどね)。

その後、当時はやりはじめていた、デイビッド・ラメルハートらの「PDPモデル」の本を読みました。この内容は確かにおもしろいのですが、これは主に理工学系の論文集で、自分たちの専門に近く、輪読会というよりも論文紹介のような感じになりました。これまでの輪読会は、自分たちの専門とはかけ離れた題材を扱って、単に好奇心で参加していたのですが、この論文集はそれらが直接研究題材になりうるものでした。ぼく個人は、この時点ですでに神経回路網の研究を開始していたし、この本の翻訳にも当たっていました。そういうこともあって、個人的には特に新鮮味がなかったように記憶しています。この勉強を契機としてこの方面の研究を始める人が出てもよさそうなものですが、なぜかそういう人は出ませんでしたね。

その後、輪読会は自然消滅したように記憶しています。蔵本先生のほうはネコ視覚野の神経細胞の活動に振動現象が発見されたことをきっかけとして、それに関する理論研究を開始されました。その関係で、振動現象に関わる神経生理学論文を読む目的的な勉強会をはじめられたようでした。一方ぼくのほうは、その後しばらくの間、数理的な計算学習理論に突入しました。その後、1993年になってイギリスに1年間滞在しているうちに、再び神経生理学に目を向けるようになりました。帰国後は自分でもいろいろ勉強して「脳のデザイン」という神経科学の入門書を書きました。この本は1996年に岩波書店から出版されました。この本を書くに当たって、これまでの輪読会の議論が参考になったことはいうまでもありません。

--- 第二期「脳の輪読会」 ---

この「脳のデザイン」のおかげでいろんな人と縁ができました。その縁で親しくなった哲学の中村光世さんがパトリシア・チャーチランドらの「The computational brain」を読んでおられましたので、その本の輪読をやろうか、ということになり輪読会を1996年から再開することになりました。ところでこの本の著者のチャーチランドは哲学者としては意欲的に神経生理学を学んでおり実に勉強家なのですが、本は若干散文的なできばえです。今度再開した輪読会は、参加者の分野も広く話題も多岐にわたり、茶話会的性格が強まりましたが、ぼくにとっては、分野外のいろんな話が聴ける、楽しく貴重な集まりになりました。なぜ哲学者が脳に興味を持つか、ということについては中村さんの著書「哲学に御用心」(ナカニシヤ出版)をお読みください。

この本の輪読の途中から医学研究科の金子武嗣さんが輪読会に加わってくださいました。輪読会に本物の神経科学者をテューターとして獲得したのは、実はこのときがはじめてなのです。1997年度は金子さんのお勧めもあってモシェ・アベレスの「Corticonics」を読みました。アベレスの構想はなかなか個性的でおもしろいものでした。各論的にはチャチイ議論もあり、結論そのものは疑わしいところもありますが、議論は建設的で、発想は健全だと思います。提供されているデータも具体的であり、たいへん勉強になりました。また、ぼく個人はその後99年にスペインのワークショップでこのモシェ・アベレスとあって話す機会がありましたが、著書は人を表すといいますか、この本から予想できる通りの人柄で、大変よい印象を受けました。

1998年はラリー・スクワイア著「記憶と脳、心理学と神経科学の統合」(医学書院)を読みました。テキストとしては多少散漫なところもある本ですが、いろんな話題が取り上げられていますので、議論の題材として好適でした。参加者も情報学研究科の青柳さんのグループに加えて、医学研究科の院生、理学研究科動物教室の院生も加わってさらに多彩になりました。この輪読会が一つのきっかけになって、冬にはメンバーの一部が神経生理学実験の見学旅行に参加しました。

1999年は大脳皮質のコラム構造についての総説論文や、神経細胞のスパイク発生同期現象に関する総説論文などを読みました。すこし間の抜けた論文もあって、いらついたことはありますが、この年には総合人間学部の船橋新太郎さんとその院生たちも加わってくだったこともあって、神経生理学実験に関わるいろんな話が伺えました。年末には船橋さんがNHKの「サイエンス・アイ」に登場なさったりして話題になりました。またこの年には、脳の輪読会の「卒業生」が生まれました。酒井裕君は理学博士を取得し、4月からは埼玉大学工学部に助手として赴任しました。酒井君の博士論文には脳の輪読会についての思い出と感謝がつづられていますが、彼はまさにこの輪読会で育ったといえましょう。また橋田和典君は修士過程を終了して企業に就職しましたが、彼も学部4年生から3年間この輪読会に参加してきました。橋田君の同期の坪泰宏君はいったんは情報学研究科の修士課程に入っていましたが、2000年度から博士課程の学生として我々のグループに舞い戻ってきました。

1999年のメンバー

2000年は神経行動学に焦点を当ててJ.P.エヴァート著「神経行動学」(培風館)を読み始めました。この本は20年以上前の著作ですが神経行動学の基本がよくまとまっている好著です。神経行動学そのものがしっかりしたスタンスをとっているということが、この好印象の原因でもありましょう。7月には物理教室の非常勤講師として神経行動学者の下澤楯夫さん(北海道大学電子科学研究所)に講義をしていただきましたが、その内容のおもしろさに興奮しました。

しかし2000年からはスタッフが偉くなってしまった結果(医学部の金子さんが助教授から教授になってしまったり、情報学研究科の青柳さんが助手から講師になってしまったり)忙しくなり、毎週一回の共通の時間をとるのが徐々に難しくなってきました(偉くなるということは不幸の始まりである!)。また2000年度は参加学生が少なく、輪読のやりくりに苦労しがちでした。そういう事情が重なって輪読会はこれまで通りの維持が難しくなりました。そこで思い切って2000年の夏に輪読会を終了することを決意しました。「脳の輪読会」は参加メンバーの研究のみならず人生の教養においても大きな役割を果たしてきました。若者たちもこの輪読会によって育まれてきました。そしてなによりもまず、ぼくが一番楽しませていただきました。これまで参加していただいた方々には心からお礼を申し上げます。

--- 「脳の輪読会」から「脳のセミナー」へ ---

そういうわけでこの「脳の輪読会」は終了しましたが、そのかわりに2001年度からは集まりを1ヶ月に1回程度の頻度にして1人の研究報告を徹底的に議論する会「脳のセミナー」(医学研究科の金子武嗣さんによる愛称は「バトル討論会」)を開くことにしました。神経科学の理論に関わるテクニカルな方面の勉強会は、ぼくのグループ「しのくらぶ」内部で来年度から別途スタートしています。この「脳のセミナー」はきわめて自主的な集まりですが、以下の方々を中心に進められています。

中村光世(関西大学文学部) 金子武嗣(京都大学医学研究科) 青柳富誌生(京都大学情報学研究科) 船橋新太郎(京都大学人間・環境学研究科) 櫻井芳雄(京都大学文学研究科) 篠本 滋(京都大学理学研究科) 

 

--- 「脳の輪読会」の歴史年表 ---

--- 第一期 ---

1986年(?) 蔵本、戸谷、久保、篠本、西川、坂口

エクルズ (小野武年訳  1984) 「脳 -その構造と働き-」共立出版 Eccles J C (1977) ``The understanding of the brain (2nd ed.) '' McGraw Hill

1988年(?) 蔵本、戸谷、久保、篠本、西川、坂口

Kuffler S W, Nicholls J G, and Martin A R (1984) ``From neuron to brain (2nd ed ) '' Sinauer

1989年(?) 蔵本、戸谷、久保、篠本、伊藤、西川、岩本、青柳、水口、樺島、茶碗谷、奥田

リンゼイ、ノーマン (中溝幸夫,箱田裕司,近藤倫明訳 1983) 「情報処理心理学入門」サイエンス社 Lindsay P H, and Norman D A (1977) ``Human information processing (2nd ed ) '' Academic Press

1989年(?) 蔵本、戸谷、久保、篠本、伊藤、西川、岩本、青柳、水口、樺島、茶碗谷、奥田

マクレランド、ラメルハート、PDPリサーチグループ (甘利俊一監訳 1989) PDPモデル,認知科学とニューロン回路網の探索」産業図書 ``Parallel Distributed Processing Vol.2'' McClelland J A, Rumelhart D E, and PDP research group eds. MIT Press

--- 第二期 ---

1996年 中村(哲学)、金子(医学部)、土肥(心理学)、青柳(数理工)、北野(数理工)、篠本、酒井、島

P S Churchland, and T J Sejnowski (1992) ``The computational brain'' MIT Press

1997年 中村、金子、青柳、北野、篠本、酒井、島、坪(4回生)、橋田(4回生)

M Abeles (1991) ``Corticonics -Neural circuits of the cerebral cortex-'' Cambridge University Press

1998年 中村(哲学)、金子(医学研究科)、瀧(医学研究科)、古田(理学研究科動物学)、青柳(情報学研究科)、北野(情報学研究科)、野村(情報学研究科)、篠本、酒井、橋田、寺前、郡、三瓶(4回生)、後藤(4回生)

ラリー・スクワイア著(河内十郎訳 1989)「記憶と脳、心理学と神経科学の統合」医学書院 Larry R. Squire (1987) ``Memory and brain'' Oxford University Press

1999年 中村、金子、瀧、青柳、北野、野村、船橋(総人)、篠本、酒井、橋田、後藤昌夫、大渕、余野(4回生)、後藤未来(4回生)

大脳皮質のコラム構造についての総説論文、神経細胞のスパイク発生同期現象に関する総説論文、など

2000年 中村、金子、青柳、野村、船橋、篠本、坪、後藤、大渕

J.P.エヴァート著(小原嘉明、山元大輔訳 1982)「神経行動学」培風館 J.P. Ewart (1976) ``Neuroethology '' Springer-Verlag