神経回路学会誌 (1998) Vol.5 No.3

旅行記 --- 神の国イスラエル ---

京都大学理学研究科 篠本 滋

イド・カンターという物理の友人がいて、イスラエルに来ないか、と何度か誘われていた。しかしぼくは1993年にイギリスに長期出張して以来、共働きの子育てに忙しかったので、海外などに出かける時間的余裕はなかった。それまでイドにもそういう理由で断ってきた。いちばん下の子どもが2歳になって、少しは聞き分けがよくなり始めたころに、イドから1997年3月に開かれるワークショップへの案内が舞い込んだ。

物理学者にはユダヤ系が多く、またぼくの知り合いにもユダヤ系が多いので、ぼくはイスラエルに対してちょっとあこがれめいたイメージを持っている。しかし一方ではイスラエルという国名には、不安定な中東情勢、テロの頻発、というイメージもある。イドが京都にきたときに「夜の10時だというのに街に警官が立っていないんだね!人々が恐れもなく街を歩いているんだね!すばらしい」などと興奮していたから、逆の状況を考えると確かにこわい。しかしやはり行ってみたい。今回はお誘いもあることだし、何度も断るのも失礼というものだ、などと自分にいいわけをして、思い切って行くことに決めた。そうこうしていよいよイスラエルに向けて出発というその日、家で朝刊を読んでいたぼくは青くなった。新聞の1面に「テルアビブで爆弾テロ、少なくとも4人が死亡」という記事がのっていたからだ。なんという不吉なスタートであろうか。しかし、とぼくは思い直した。テロ発生には負の相関があるに違いない、爆弾テロの直後は警戒が強まるからテロの確率は低くなる、そうだ、低くなるのだ、なくなるとはいえないけれども、それに、いまになって仮病を使うわけにもいくまい。ぶつぶつとこんないいわけをしながら空港へと向かった。

日本からイスラエルには直行便はなく、ヨーロッパ経由で入る。関西からチューリッヒに12時間、そこでトランジットに7時間、その後5時間かけてテルアビブに向かう。ただでさえ胃腸が弱いところにきて風邪をひいておなかの調子が良くない。飛行機に乗るのは苦痛だ。さらにテロのニュースでがっくりきている。チューリッヒ空港のレストランで、向かいに座ったフランス人と四方山話をする。その人が「ぼくは仕事で日本に行ったことがあるよ。ヨコハマに行った。キョウト?行きたかったね。ぼくはこれからクニに帰るの。ところで君はどこへいくんだい?」というから「ぼくはね、これからあの例のテルアビブへ行くの」というと彼は吹き出しそうになった。彼はその場を取り繕おうとして「ネタニアフは良くないね、なぜなら、、、」とだらだら話していたけど、これから突撃にむかう特攻隊員に勇気を出せ、と言っているような気分だったに違いない。別れるときに彼はにやりと笑って「Good luck!」といった。テルアビブ行きのゲートでは持ち物検査はもちろん、長い質問があった、なぜイスラエルにはいるのか、他人から頼まれた持ち物を運んでいないか、などなど。

ワークショップはイスラエルの最南端、エイラットという町で開かれる。紅海のアカバ湾に臨むリゾート地である。テルアビブからさらに国内便に乗り継ぐ必要があった。国内空港では検査がさらに綿密になった。あなたを招いたのは誰ですか、何の研究をしているのですか、そうですかニューラルネットを研究しているんですか、しかしなぜそれが物理と関係あるのですか。こんな質問まで出てきた。そしてついに「発表用の機材を出して説明してください、私は大学で物理を習っていました」ときた。ぼくはトラペンを取り出して「この式には間違いがあるのですがあなた分かりますか?物理を習ったんでしょう?」と逆にからかった。係員は終始にこやかに応対していて会話は楽しいものだった。もしかしてぼくは日本人だからからかわれているのではないかな、いやしかし考えてみれば、日本赤軍によるテルアビブ空港乱射事件も彼らの記憶に残っているに違いない、などといろいろ憶測した。その後会場について分かったことだが、こういうことを経験したのは日本人のぼくだけではなく、ヨーロッパ人もすべて厳重なチェックを受けていた。「mines sweeping のベイズ解法」という演題で話した人は、地雷を画面いっぱいに描いたトラペンをみせて「ぼくはすでに空港でしっかり講演を済ませてきました」といっていた。

そのワークショップは物理学者を百人ほど招いたものであったが、その大半は名前や顔に見覚えのある猛者であった。ヨーロッパとイスラエルからがほとんどでアメリカからは5、6人、日本からは2人。それでも会議のオープニングでは「ヨーロッパのみならずアメリカや日本からも来ていただいた」と言ってもらえたのは光栄な気分がした。その百人が3分野に分けられているので、ニューラルネット関連の研究者は30人ほどにすぎない。しかし議論にはこの程度の人数が最適だ。このニューラルネット関連の会議のリーダーは口八丁手八丁のハイム・ソンポリンスキーとサラ・ソーラの二人だな、ということは行く前から参加者名簿をみてわかっていたが、会議は予想通り過激なものになった。こんな研究は意味がない、というのに近い議論もあって、どなりあいのようになることもある。時間だけは厳守するので、演者が半分も話せないうちに終わることもある。テーマは学習理論の話が多かったが、かなり話は細かになってきたな、という印象が強かった。よくあることだが、分野が成熟してくると、高度に数学的な議論をやってのける秀才の若手が増えてくる。ハイムやサラはともかく他の中年おじさんたちは細かな数学に少し食傷気味であるように思えたが、これはぼくの偏見であろうか。この種のテクニカルな講演に関してはあまり方法論に関する過激な口論はおこらないが、多少退屈である。ある演者が「痛ましい計算(painful calculation)の結果得られたのがこの図です」と話して失笑を買っていたが、この言葉はどこか暗示的である。

ぼくは神経スパイク統計の話をしたが、ぜんぜん系統が違ったことが新鮮だったのか、議論が時間をオーバーして加熱した。ただし議論はぼくが仕切ったわけではない。質問に対してぼくがのろのろ返事をしていると早口の他人が代わりに答えるというアリサマであって、英語で議論するというと、いつもこのように損をした気分になる。しかし、あのハイム・ソンポリンスキーが概して好意的であったのは意外だった。講演の後に「理論に戻ってこないのではないかと思っていたが、よく戻ってきたね」といって握手をしてきた。以前日本で彼に会ったときに、ぼくが「今は神経生理学を勉強しながら神経科学の入門書を書いている。研究はしていない」といったことを彼は覚えていたのだろう。

3日間の会議の中日にはゴージャスなディナーが準備されていた。食事中は音楽の演奏があり、食後にはイブニングレクチャーがあった。生物学の教授が紅海アカバ湾のサンゴについて話した。講演が始まる前にその教授は前のほうに座っていたぼくに話しかけてきて、コマバのトウダイに半年間滞在していたころのことをなつかしそうに話してくれた。その後講演が始まったが、実におもしろく、なおかつ教育的な内容だった。サンゴのぎりぎりの生き残り戦略の巧妙さ、ピナツボ山の噴火による温暖化のおかげでアカバ湾の水温も上昇してサンゴの25パーセントが死んだことなど、このワークショップでいちばん勉強になったのはこのサンゴの話である。

会議が終わって飛行機でエルサレムの空港に向かう。空港でハイム・ソンポリンスキーに会ったので一緒にタクシーを雇ってエルサレムの街に向かうことになった。エルサレムの街は欧米の街とはどこか違うが、家々の壁がジェルサレム・ストーンと呼ばれる石で統一された美しい街であった。ハイムが「ぼくの家で夕食を食べていかないか」と誘ってくれた。彼の家は閑静な住宅街にあった。自宅に足を踏み入れたとたんに、彼は人が変わったようになごやかな表情になり、子どもたちの肩をやさしく抱いた。こんなにアグレッシブな研究者もなかなかめずらしいが、こんな優しい父親というのもなかなかめずらしい。美しい大学生のお嬢さんがいて、ぼくが彼女に「あなたのお父さんはいつもこんなに優しいのですか」と聞くと「そうです。とても」と言っている。「彼は外ではどなり散らしているんですよ。知っていますか」というと、彼女は「そう聞いたことはあります」とにこやかに笑い、一方ハイムは子どものような照れ笑いをしていた。

その翌日はイドが予約しておいてくれたガイドがホテルにやってきた。これには以前ぼくが彼を日本に招いたことに対するお礼の意味もあるのだろう。ぼくはこんなに至れり尽くせりの接待を受けたのは生まれてはじめてだった。

そのガイドは高校までオーストラリアに住んでいたが、その後この国に移り住んだそうだ。「この国には危険な兵役があるようだけどなぜ来たの?オーストラリアの生活のほうがのんびりしていないの?」というぼくの質問に対して、彼は胸を張って答えた「ぼくらユダヤ人にとってはこの地は絶対的な意味を持っているんだ。ぼくはこの地に戻ることができて幸せだ。アラブ人は高々2百年ここに住んでいるにすぎないが、ぼくらユダヤ人は2千年の長きにわたってこの地に魂を捧げてきたんだ」「イスラム教徒には出ていってほしいというわけ?」「いやぼくはこの平衡状態でよいと思う」。

エルサレムはユダヤ教、イスラム教、キリスト教という3大宗教にとっての聖地である。神殿跡にある巨岩は、ユダヤ民族の祖アブラハムがその子イサクを生け贄として置いた岩であるとされるが、イスラム教の祖であるマホメットはこの岩の上から「夜の旅」に旅立ったとされている。つまり、その巨岩はユダヤ教にとってもイスラム教にとっても、この世と神の国とを結ぶ聖なる点(特異点)なのである。ローマ人によってこの地を追われたユダヤ人は世界中に離散し、以後2千年間にわたってこの神殿跡に入ることができず、「嘆きの壁」にて嘆くことが許されただけであった。その巨岩の上にはイスラム教の「金のドーム」がそびえている。イスラム系住居地区の下にトンネルを掘ることによって、すこしでもその巨岩へ近づこうとするその執念の背景には、この2千年におよぶ怨念があるのだ。許可をもらってぼくはこのトンネルの中に入った。トンネル半ばでそのガイドは言った「ここが聖なる地点にもっとも近い場所だ」。ぼくは神の国に近づいた気分になった。

その日金曜の夕方はユダヤ教の安息日(シャバト)の始まりである。こんにちは、さようなら、というのはヘブライ語で、シャローム、というそうだが、安息日の前には、シャバチャローム、といって安息日を祝う。ぼくは真夜中に空港に向かわなくてはならないので日が落ちる前から眠りはじめた。うとうとしかけたときにイドから電話がかかった「ガイド旅行は楽しんでくれたかな?」。ぼくは寝ぼけながら「すばらしかった。何もかもすばらしかった。ありがとう」といって電話を切ったが、何かとても大事なことを忘れた気分だ。そうだ、シャバチャローム、というべきだったのだ。

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嘆きの壁、隣にいるのはハンガリー人物理学者

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