--- 学生時代をどう過ごすか ---------------------------

京都大学 物理 篠本 滋 (2021/12/24 version 9.4


大学での生活,勉強や研究,進路選択などについて大学生や大学院生と話すことがあります.いくつか重要なことについてここにまとめておきます.主に研究者をめざす人を想定して書いていますが,一般に通じる内容も多いと思います.話すことは好きなので気軽に訪ねてくれれば結構です.

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--- 学部学生へ ---
1.1 学びのとき:ひとつは確実に物にする
1.2 テーマの情報収集:学んだことは忘れる
1.3 最後は飛びつく
1.4 外国の大学院への進学やポスドク生活について
--- 大学院生へ ---
2.1 大学院生に求められる能力
2.2 たのしく暮らす,ということ
2.3 修士博士課程の研究スケジュール
--- 共通の補足 ---
3.1 中身で勝負か,表現で勝負か
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1.1 学びのとき:ひとつは確実に物にする

思い出話から始めます:ぼくは大学に入ったばかりの頃,当時大学院で学んでいた先輩に,大学生活をどう心がけて過ごせばいいかうかがいました.先輩のアドバイスは「勉強でもサークル活動でもなんでもよいから,ひとつだけ確実にものにするんだ.この時代にはこれをやった,というものを確立することだ」という趣旨でした.何十年経ったいま考えてみても,学生時代の過ごし方のアドバイスとしては,この先輩の言につきると思います.

このようなすばらしいアドバイスをもらったわけですが,大学初年度のぼくはというと,数学の講義はよく分からないし,教養物理の講義はおもしろくないし,と,勉強はさっぱりでした.またサークル活動は楽しんではいたものの,これをやったというほどのものはありませんでした.悩み多き頃のなつかしい思い出は多いのですが,達成感とか充実感とかいうものが無い時代でした.

しかしその後,学部の講義が始まると,なぜか理論物理学の講義にひかれ,理論演習もおもしろくなりました.予習に忙しく大変でしたが,毎日が充実していました.演習では若い先生と議論できるし,講義にも口を出してシニアの先生と話すことで一人前になった気分を味わえるし,背伸びする感じがうれしくて生き生きしていました.

■講義をする立場からみても,学生から質問がでるのは張り合いがあってうれしいものです.だから,みなさんも積極的に取り組んでどんどん質問すれば,先生は応援してくれると思いますよ.■

自主ゼミもやりました.当時はテューターなどというシステムなどありませんが,知り合いの知り合いという調子で理論の院生に頼み込んで,無償で教えに来てもらいました.

■もし断られても,ふつう相手は不愉快に思っているわけではなく,むしろ協力できなかったことを残念に思っていたりしますので,別の局面で協力してくれたりします.こういうことは恋愛にも通じるものかもしれませんが,何事もダメモトだと開き直ってやってみたらどうでしょう.■

学生時代には勉強とかサークル活動とか趣味とか恋愛とかたくさんやることがあって,そのどれもに積極的に取り組めばよいと思います.ただし,どれもこれも二流で終わるのではなく,なにか一つは物にしてください.

1.2 テーマの情報収集:学んだことは忘れる

学部時代には学問体系を学んで,大学院に進学して個別の研究をおこなう,という手順を踏みます.大学院の進路決定は人生を決める重要なもので,その際にどのような情報収集をすればよいか,というのがこの節のテーマです.

昔の学者には,僧侶のように高度な知識を深く学び会得する高い知能が求められ,そういう能力のことを利発さと呼んできたのだと思います.それは大学入試や学部での単位集めに必要な能力でもあり,利発さは同級生の間で評判を呼びます.しかしそれは,違う学年,全国の大学,さらに国際社会にでれば特に珍しいものではなくなります.また現代の研究というのは知識の総合力を競うものではありません.長年教員をやっていますと学生の利発さとその後の研究の成否との間にはほとんど相関がない,という実感をもちます.

現代の研究というのはフロントが絶え間なく動く戦いであり,そこで勝ち残っていくためには過去の学問を会得するだけではダメで,時代の動き,戦線の変化を的確にとらえていく能力が要求されます.研究テーマや研究室の選択は自分の成否を分ける大問題ですが,よく勉強をする人にかぎって時代の動きに無関心で,学んできた過去の学問の中からテーマ探しをしようとします.スポーツ好きな小学生の多くが「将来の夢」に野球選手やサッカー選手を挙げるような発想と同様かと思います.学部で基礎をしっかり身につけることは大事ですが,それと進路選択とは切り離して考えるのが賢明かと思います.

■研究というのは基本的には戦いである,という認識が学生のみならず一部の教員にも欠けているように思えます.どんな分野にも栄枯盛衰があり,それには社会的・時代的背景があります.そのときにはよくわからなくても時が経つとその変化が必然であったことがわかる.やや唐突な比喩ですが,室町幕府の再興を至上命題とした明智光秀や,豊臣家の存続を至上命題とした石田三成などが敗れた原因は,社会的・時代的感覚の錯誤にあったのではないでしょうか.■

■分野選択においては,皆が知っているテーマにはすでにチャンスはほとんどない,という感覚をもつことが必要だと思います.誰もが知っている難問というのは,過去に何百人何千人の秀才がチャレンジして敗れたから残っている,という事実を直視し分析し警戒する必要があります.敗れてかまわないからチャレンジしたいというのも一つの人生でしょうが,敗れた場合の人生設計なしでチャレンジするというのは単なる阿呆でしょう.■

■わかりきった大テーマにしのぎを削って勝ち残ることも立派な能力かもしれませんが,むしろ,だれも価値がわからない石ころの中から宝の原石を探し出し,磨き上げる能力こそが,真の創造性ではないかとぼくは思っています.しかしこれこそ簡単なことではなく,素人が素朴に思いつくようなことは,ほぼ例外なく過去に発掘されているものです.テーマ発掘こそ経験と優れた勘が必要で,すぐれた指導者・グループを探してその指導の下にノウハウを学ぶ必要があります.■

研究というのはノウハウです.あなたがいかに優秀であっても質の低い研究室に入ったらよい研究はできません.研究室選びに際しては,まずウェブから基本的な情報を得ておくことをお勧めします.良い研究室の必要条件は,まず先生が現時点で世界的な視点でみて活躍していることです.論文引用状況についてはgoogle scholarやISI web of knowledgeなどを用いれば調べることができます.これらの数値は分野間の差も大きく,また単に数が多ければいいというものではありませんが,国内同一分野の研究者との比較で論文の引用件数が少なすぎる人は避けた方がいいかもしれません.その人が現時点でどの程度その分野で受け入れられているか,最近の勢いはどうか,というようなことは調べておいた方がいいかと思います.

■ただし数値比較をしはじめると,研究の中身を知らない素人でも研究者たちを見下ろすような気分にひたることができるので,そういうことに熱を上げすぎる人が出てきます.野球中継を寝っ転がってみて選手たちの評論に明け暮れているようなもので,そういう人は選手にはなれないでしょう.選手を目指す人が所属団体を選ぶ際にその基本的な数値は調査するだろうと思いますが,その目的は評論ではなく,現状の客観評価と今後の動きを知るためであることを忘れないようにしましょう.■

また,その先生が目立つだけではなく,院生をどう教育しているか,人材を輩出しているかどうか,という実績の情報収集も重要です.そういう情報は研究室のサイトを調べればわかるはずですし,教員は自分のサイトで研究に対する考え方も開示しているはずです.

■国内でマスコミ受けするとか,一般向け雑誌などで名前を目にするというような素人情報はまず当てになりません.研究室の院生から話を聞くにせよ,その人の質を見極めながら話を受け止めないと間違った知識を受け入れることになります.「若者は年寄りのことをきいていてはいけない」とか「若者が何でも自分で考えてやっている」という類の浮ついた話には用心が必要です.学問というのは無数の研究者の努力の上に成り立っており,未完成なものを完成にむけて改良していくプロセスです.そのノウハウを蓄えているのが良い研究室であって,ゼロから忽然と大きなものが出来上がると夢想しているようなところは,伝えるべきものをもたない質の低いグループだと思います.■

要するに「その研究室に入れば自分はどういうスキルを身につける事が出来て,それが将来の自分にどう役立つのか」という自分の利益を冷静に計算すればいいのです.ただしそのための情報収集には細心の注意が必要です.

自由放任の研究室なら,働くこともないでしょうが,そのぶん得ることもないと思います.厳しい表現になりますが,大切な年頃をそのように無為に過ごすことはやめた方がよいと思います.大学院を学び・働きの場と考えて「研究で働きながら人生の貯蓄を行っていく期間」と考えれば,得ることがあるのではないかとおもいます.

1.3 最後は飛びつく

周到な情報収集をすれば唯一解が出てくるわけではありません.情報収集をすればするだけ良い面と共に悪い面も見えてくるはずですから,むしろ不安も増えていくでしょう.進路選択というのは賭で,結婚と同様,結局は惚れるかどうかという問題だと思います.相手と話して,その人となりを自分の目で確かめることです.最後は結局その人を面白いと思えるかどうかだと思います.選択には最大限の情報収集を行うけれども,ひとたび決めたら悩まず邁進するというのが人生の達人だと思います.

■チャンスに恵まれるかどうかは運ということになりますが,人をみていると,チャンスは誰にも何回かは訪れているように思えます.よい指導者の下にいても,チャンスに惚れて飛びついて物にする人もあれば,次々とチャンスを見逃していく人もあります.玉も石もありますから,何にでも飛びつけばよいというわけではありませんが,自分で見逃しておきながら,自分の好きなものや人に出会えない,ということを嘆くという人はたくさんいます.これまでぼくがみてきた範囲では,このような人は2種類に分類できます.ひとつのタイプは,何をやってみても満足に達しないで「目の前の物よりもっといい物が外にあるに違いない」と夢想することを繰り返す「青い鳥症候群」.もうひとつのタイプは,世間の評価が確立した完成品にしか興味のない「見る目が肥えて結婚相手が決まらない」というケースです.■

■「幸運の女神は前髪しかない」というように,チャンスは通り過ぎたらもう手遅れです.ひとつのチャンスを逃したときに,その事実を率直に受け止められる人には脈はあります.何が原因だったかを分析し,次のチャンスは逃さないようにすればよいのです.何度チャンスが通り過ぎても「酸っぱいブドウ」だったと開き直る人は,甘いブドウに巡り会わない自分の不運を嘆き続けることになります.■

■松下幸之助が面接の最後に「あなたは運がいいですか?」と質問し「運が悪いです」と答えた人は不採用にしたという話は有名です.positive thinkingであるかどうかを測っているともいえますが,自分の不運を嘆いているタイプの人は,物事を成し遂げる事はできないでしょうね.■

■研究室選択の誤りは時として致命的になります.研究室の選択が誤っていたと考えるなら早急に研究室を変えればいいのです.おもしろいことに(というのはやや冷たい表現ですが)惚れて飛びつけないタイプの人というのは,失敗した場合にも方針転換が出来ないのです.■

1.4 外国の大学院への進学やポスドク生活について

近代科学は主にヨーロッパで発展してきましたが,現代科学を牽引しているのは米国です.どこの国が中心になるかはあまり本質ではないと思いますが,いずれにせよグローバリゼーションの波は止む気配がなく,人材の集約の度合いはさらに強まると思われます.このグローバリゼーションの下で,現代の若者が,村社会のような日本内部の組織に浸ってこぢんまりと平穏な人生を全うできるとは思えません.

科学研究ではすでにグローバルスタンダードで勝負するということが前提になっています.学問分野によっては必ずしもそうではないところがあるように見受けられますが,それも早晩グローバリゼーションに飲み込まれると思われます.最初に村社会で幅をきかせていた個人も,その村がより大きな町や市に飲み込まれるときには弱い存在になってしまいます.このような現状を鑑みますと,若い人には,大学院かポスドクの若い時期に自分自身をグローバルネットワークに接続することを勧めます.ここで注意しなければいけないのは,接続すべき点は重要なハブであるべきだということで,たとえば米国であればどこでもよいということではありませんし,日本国内にも世界レベルのハブはあります.

■自分を最初につないだ接続点がどこであったかが以後の成否を決めるといっても過言ではありません.■

■外国の大学院を選ぶには,この情報収集が国内よりもむずかしいのも事実です.立派な仕事をした教授を探すことは容易ですが,その人がどのように学生を使うかという情報を得ることが難しい.有名人は忙しく,学生やポスドクにつきあっていられないというケースが結構あります(日本国内の場合は,雑用が多くて時間が割けないという教授が多く,それも深刻です).この種の情報をしっかり収集しないで留学するというのはやや無謀です.大学院では国内のしっかりした研究室に入り世界の研究動向を調べ,その間に世界的に優れた指導者と知り合って,ポスドクとして数年間修行を積むのがよい選択かと思います.■

2.1 大学院生に求められる能力

大学院生にどういう能力が求められるか,ということは,重要な問題である割には,これまでしっかり議論されてこなかったように思えます.研究の種類や,さらに研究室によっても求められるものが異なっていて一般論はない,ということがその背景にあると思われます.ここでは,ぼくの個人的な考えを述べます.結論から先に言うと,大学院生に求めたいことは,

「人のメッセージを正確にとらえ,自分のメッセージを人に正確に伝える.」

これに尽きます.京大の大学院に入ってくる人は優秀ですが,学部を卒業して大学院に入ってくる段階でこれがしっかりできる人はほとんどいません.ぼくはこの点を口うるさく教育し,大学院生の多くは在学中にかなり成長しますが,大学院修了時でも納得のいくレベルに到達した人はほとんどいません.ぼく自身も未熟です.

ここでは「メッセージを正確にとらえる」ことについて考えましょう.研究ミーティングでは,報告を受けて議論し,次にやってくることを決めます.次回のミーティングで,前回決めたことをやらずに,全く別のことを報告する人がいます.意外に思うかもしれませんが,これは例外的ではなく,大学院入学時点では大部分の人にそういう傾向があります.決めたことをやった上に自分の考察や解析を加えるというのは申し分ないのですが,そうではなく,やると決めたことをやってこないのです.なぜ決めたことをやってこないかというと,「人のメッセージを正確にとらえて」いないのが原因だと思います.

ぼくが舌足らずであることも原因の一端かもしれませんが,複数の学生が同じメッセージを聞いた場合に,それを理解できていた人と,できていなかった人に分かれますので,こちらの表現力だけの問題ではありません.また,仮に人のメッセージがわかりにくいならば,自分の利益に関わることですから,その場で真意を聞きただすべきです.やってこなかった人に状況を確かめてみると,実は言われたことは記憶しています.また,メモを取らせますので記録にも残っています.ですから,これは理解の能力の問題と言うよりも,メッセージをしっかりとらえようとする気迫の問題だと思います.

■ともあれ,そうやって学生が勝手にやってきたことで意味があったことはまずありません.なぜこんな奇妙なことをするのか不思議に思って聞くと,「決めたことがうまくいきそうにないと感じたから(自分の判断で)これをやってみました」というのです.昔ぼくはこういう返答を聞くと,その人はやる気がないからこういう言い訳をしているのだろう,と思っていたのですが,どうやら本気でそう思っているらしいということがわかってきました.こういうケースは繊細な体質の人が多いように思えます.これらのケースに共通しているのは,前回やった議論を復唱せずに,いきなり自分のやってきたことを話し始めることです.前回の議論が今回の議論に全く反映されていないので,再びもとの位置に戻って始めなければならず,この期間が無意味になります.これを何度となく繰り返し,なかなか仕事が進みません.■

■この問題は結構深刻で,意外に多くの学生が,「自分の判断で行動しなければいけない」という強迫観念に駆られて消耗しているように思えます.そのいっぽうで,人の動きを常に気にして「空気を読む」ことに明け暮れている.これらは一見して逆のように思えますが,実はおなじメカニズムのように思えます.この分析をすればおもしろいと思いますが,ここでは主題ではないのでやめておきます.いづれにせよ,どちらも無駄な苦労だと思います.苦労すべきことは他にあるはずです.■

ぼくが理想にしている報告は「前回のミーティングで,やってみようと決めたことはAとBです.やってみた結果,Aはネガティブな結果に終わりましたが,Bはポジティブな結果が出ました.その詳細は次の通りです.」というスタイルです.入学時点でこれができる院生は,ほぼ皆無です.数年がかりの教育でこれを目指すわけです.ところで,仮に「A,B」共にネガティブになっても自分のせいではないのですから,包み隠さず経過と結果をしっかり報告することが大切です(結果がネガティブであったら,なぜネガティブと判断したかについて,議論に耐える報告が出来ればむしろ立派です).そしてさらに「A,Bの結果をふまえて自分はCを考えてやってみました.その結果はこうなりました.」という発表ができれば最高ですね.ただし,大学院では「A,B」の報告がしっかりできるようになることがまず何よりも大事です.それをせずにいきなり「C」だけやろうとする人はうまくいきません.

■もしも「人のメッセージは半分ほど聞いて残りは自分の自由にすればよい」と考え,「その残りの部分が自分のオリジナリティだ」などと思っているなら,それは大変な勘違いです.日本だけかどうか知りませんが,人に頼ること,人の指示にそのまま従うこと,を恥ずかしいと考え,独立することをむやみにあおるような風潮が背景にあるように思えます.さらにはそういう風潮に駆られてか,人にアドバイスを求めず自分でやろうとする人がいます.この態度は一見立派に見えるかもしれませんが,うまくいった例はみたことがありません.「守・破・離」という言葉があります.物事に上達するプロセスを,学びの段階,洗練の段階,独自の境地の段階に分けるこの考え方は川上不白という江戸時代の茶匠が記したものだそうですが,学問にも通じるものです.学びの段階でいきなり独自の境地を求めようとすると,境地はおろか基礎も身に付かないという結果になります.この種の失敗例はたくさんみてきました.■

■大学院時代というのを「守」すなわち学びの場と割り切って,ひたすら学んでは如何でしょう.そもそも「オリジナリティ」とかいう言葉を振りまく人に限って,今はこんなことが流行っているらしいとか,別のグループではこんなことをやっているとか,つねにまわりを気にしているように見える.ぼくの知り合いにはずば抜けた頭脳や真のオリジナリティの持ち主がたくさんいますが,そういう人はむしろそんなことには無頓着です.■

実は「メッセージを正確にとらえる」ということそのものがとても難度の高い作業で,それが正確にできる人というのは非常に優れているということなのだと思います.多くの人は人のメッセージに自分の勝手な解釈を重ね,そのことによって多くの無駄を重ねます.ところで,「文章の行間を読め」などというようなことをいいますが,これは間違った考えだと思います.少なくとも科学の良い本というのは,文そのものを正確に読むことで内容がわかるように出来ています.余分な解釈を加えて補間しようとするのではなく,単語の意味を正確に調べていけば真の意味がわかる.だから勝手に想像で補ったりしてはいけないのです.会話においても同様で,言外の意味などを想像しようとしてはいけない.そもそも発信源が目の前にいるのですから疑問があればその場できっちり聞きただすことです.注意してほしいのは,ここでは「人のメッセージを聞き漏らさない気迫がほしい」といっているのであって「何でもかんでも上に従え」といっているのではありません.むしろ納得できないメッセージはその場で問いつめるべきです.その結果,あなたの考えが取り上げられるかもしれませんし,あなたの考えよりボスの方針が適切であることが理解できれば,それは貴重な知識になります.

■むかし「論文の図を変更しよう」という指示を出したときに,ある院生が納得いかない顔で「この図(のまま)でいいように思いますが」と聞いてきたことがあります.ぼくはその院生に「まずはぼくの言うとおりの図を作ってみてください.それをもとの図と比較して,君がもとの図のほうがよいと思えばそれを採用しよう」といったのです.院生はその後,新しい図を作ってきて「新しく作った図のほうが確かに良いですね」と納得して図を交換しました.この例からの教訓は二つあります.まず,教員というのは,経験を積んでいるとか能力が高いという根拠のもとに選ばれているわけで,経験が浅く能力が未知の人が考えるよりは,一般に適切な方針を選んでいるということが多いということです.より重要なもう一つの教訓は,物事の判断は想像でやってはいけないということです.物事に選択の余地があるなら,労を惜しまず,すべてを試してみてから決定することです.■

■ともあれ,このように納得のいかないことがあれば率直に疑問を投げかけるのはよいことで,そういうことのできる人は仕事を順調に進めることができます.人のメッセージを正確にとらえようとしているからできることです.■

さて,残るは「自分のメッセージを人に伝える」というテーマですが,これはさらに難しい問題で,とても長くなりますので,また別の機会にまとめたいと思います.とても大事な問題で,その技法だけでも一冊の本で足りないほどの量になると思います.

2.2 たのしく暮らす,ということ

ぼくは修士博士課程の大学院生といっしょに研究をすすめることが多いので研究上も彼らから刺激を受けますし,彼らと四方山話をしたりすることも楽しませていただいています.こういう環境にいることができるのは大変幸せだと思っています.ぼく自身も昔はその大学院生であったわけですが,いまの学生気質は当時のものとは当然違っています.好もしく感じることもあれば,歯がゆく感じることもあります.概して,あくの強いタイプの人が少なくなり,好青年が増えて,見た目もかっこよい人が増えてきたなあ,と思います.ぼくのころは修士課程に進む人は半数以下,博士課程に進む人はごく少数でよほどの変わり者とみなされていましたが,最近では理工系ではほとんどの大学生が修士課程に進学し,博士課程に進学する人もかなりな比率に達しています.つまり大衆化が進んだわけです.

最近は学力低下が問題視されます.総合力の低下は確かにかなり深刻な事態だと思うのですが,目先の問題を処理する能力そのものは(京大の院生あたりを見る限りは)まだそれほど深刻な状況ではないと思います.ぼくが深刻に感じるのは,学生自身が目標に向かって邁進する気迫のようなものが見えにくくなっているということだと思います.やっていることをおもしろいと思っていないのか,おもしろいと思っていても声を大に宣伝するような行為をあさましいと考えるのか,気迫を表現する方法を知らないのか,よくわかりません.マッチ売りの少女の「マッチ買ってください」というシーンを思い浮かべてみますと,これをやるのはかなり勇気がいるということでしょう.また「マッチ買ってください」といわなくても暮らしに困ることはないという現状もあるでしょう.研究業というのはしかし個人営業のようなもので,基本的には「言ってみたからといって買ってもらえるとは限らない.しかし言ってみなければぜったい買ってもらえない」という類の生業だと思うのです.研究がおもしろいと思えないなら店をたためばよい.でも,おもしろいから続けたいと思うなら「これを買ってください」といってみてはいかがでしょう.

■研究以外の面ですこし気になる点は,院生同士で楽しむ活動が減っているように思うことです.一緒にコンパを企画したり,ハイキングに行ったり,スポーツをやったり,酒を飲んだり,そういった活動が昔に比べると減少気味の印象を受けます.楽しみ方がより個人的になって,集団で何かをやるという活動が減ってきているという社会の状況を反映しているのかもしれません.研究が楽しいというのが一番大事ですが,研究以外でも積極的に取り組んでエンジョイしたらいいと思いますね.■

2.3 修士博士課程の研究スケジュール

注意:研究の進め方は研究室によってかなり違うと思います.以下はぼくのグループの院生に示す方針で,一般的に通用するものではありません.

[修士課程] M1のうちに試行的研究を開始し,関連研究のサーヴェイなどを始めます(最近は研究を早く始めて論文を出すことを目指すように誘導しています).M2の夏頃にはほぼ結果が出ていることが望ましい.秋頃に全体の流れがほぼ完成していることが必要.

論文原稿は研究を開始した段階からパッチワーク的に作成していくことをお勧めします.最後になって論文全体を一気に書き上げようなどと考えるのは間違いです.関連研究論文はサーヴェイの段階で解説レビュー原稿を作っておけば,修論・博論のなかに関連研究の紹介としてほぼそのまま差し込むことが出来ます.

修士発表会の2-3週間前には発表用パワーポイントを完成させ,研究室内で発表内容練習をやります.口頭発表は原稿を必ず書くこと.15分発表のためには10-12分程度の原稿を準備する(そうしておいたら実際の発表では15分になってしまいます).その原稿を用いてまず自分で発表練習をしておく.本番は原稿なしで発表する.

■発表に自信がある人でも,かならず口頭発表原稿を作って練習をするべきです.日本人は発表の技術に関して無頓着すぎると思います.内容がよければ人は聞いてくれるものだ,というような考えは日本人特有の甘えた発想だと思います(3.1参照).■

[博士課程] D1は新たな研究方向を模索する最も重要な期間です.ここで気を抜く人はその後なかなか回復できません.D1の間にほぼ博士論文のテーマが決定することが望ましい.そうでなければ3年で博士取得は難しい.論文投稿はすんなりアクセプトされるケースはまずないと考えておくべきです.特に博士論文になるような研究は定型的ではない新しい試みであるべきですが,そういう論文に限って論争になり,すんなりアクセプトというわけにいきません.また,アクセプトされやすい路線ばかりをねらっているとオリジナルは出せませんから,論文投稿で論争になること自体はけっして悪いことではないと思います.むしろ論争になることをおそれることの方が問題です.いずれにせよ投稿からアクセプトまでには1年以上かかることを覚悟しておく必要があります.D3で学位取得となると本論文となる論文はD2で完成し投稿していなければいけないという勘定になります.

3.1 中身で勝負か,表現で勝負か

広い世の中には「良く見せることが出来さえすれば,中身は少々手を抜いても構わない」かのごとく行動する人がいます.外国にくらべて日本ではこういう人は少なく,仕事の目的が「良く見せること」なのか「中身」なのかという質問をするなら,日本人の多くは「中身」を取るように思えます.この誠実さは,チームプレーで高品質高信頼性の製品を生産しつづける誇るべき能力でもあります.しかしながら,研究というのは個人プレーで,そこではものを「良く見せ」て自分を買ってもらうことが必要です.

■日本では自己主張すること,宣伝することを利己的であると受け止める傾向がありますが,個人プレーの場では「だまって良いものを作っていればそれでよい」というのは国際的には通用しません.日本の学生さんには控えめな人が多いのですが,ぼくは最近,この一見控えめな行動にちょっとした「いやしさ」のようなものを感じることがあります.自分からアクションをとらずに,人が好意的に解釈してくれることを期待して,声をかけてくれるのを待っている,というように受け取れるのです.いってみれば,相手のことを好きなのに好きとも言えずに相手が近づいてくれるのをじっと待っているような感じなのです.相手のことを好きなら好きといえばよいし,自分の作ったものが良いと思うなら「良いから買ってください」と主張したら,むしろさわやかでいいだろう,と思うのです.■

むろん仕事の「中身」で手を抜いてはいけませんが,「中身が完成すれば発表でもするか」では話になりません.研究というのは戦いで,そこでは「あの国に勝つために新兵器を作ろう」というのが筋で「新兵器を作ったからあの国と戦ってみるか」というのは間違っています.

■誤解のないように付け加えますが,ぼくは,誰も彼もが戦わなければならないと思っているわけではありません.自分が寡黙に「良い中身」を作っていれば,それを理解し評価してくれる人が現れてずっと給料を払ってくれるというならそれで十分だと思います.ただし,そんな気の利いた職というのはめったにないのに,そんな身分になりたいと思っている人はたくさんいるという現実をしっかり見ておいてください.街を歩いていて,通りに似合わないようなこじゃれた店を見かけて,誰がこんな店に入るのだろうか,と思っていたら数ヶ月でその店が消えているということがあります.なにをやるにせよ,世の中の様々な仕事がどういう理屈で成立しているのか,ということに対する理解は必要かと思います.■

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大学院生へのメッセージは https://s-shinomoto.com/graduatestudents.html
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