岩波 「科学」 2001年 4,5月号 ---「科学」70周年記念 特集:あなたが考える科学とは---

pp 533-536

 

サービスとしての科学

 

篠本 滋   京都大学理学研究科

 

 

科学の歴史

 

普遍的真理を探究する科学は時を経てもその価値が失われることがない。これが科学万能主義ともいえる風潮の中で少年少女時代を過ごした世代が共有するイメージではなかろうか。どれくらいの世代にわたって、どのような教育環境にあった人たちが、このイメージを共有しているのか、興味深い。

 

考えてみればしかし、科学というものは人類の歴史からみればごく最近になって発生したものである。科学的考察の源泉をギリシャ時代までさかのぼって求めようとする作業は、いわば事後の粉飾であって、そこに実際的な因果関係があるとは思えない。近代科学の源泉をデカルト、物理学の源泉をケプラーやニュートンといった天才たちに求めるとすれば、その歴史は3百数十年という勘定になる。関ヶ原の戦い(1600)より後の出来事である。科学が精密な実験に基づいて連続的進展を始めたのが産業革命以降のことだとすれば、その歴史はせいぜい2百年程度。そして現代物理学、化学の始まりを量子論、相対論に求めるとすれば、その歴史は百年にすぎない。特に物理学、化学は20世紀前半にすさまじい勢いで進歩し、20世紀後半には幅広い分野に応用され、人類の生活を一変させた。科学研究を通して獲得された自然法則そのものは時代を経ても変わらないが、科学研究のフロントはこれまでも大きく動いてきた。

 

現状認識

 

数年前にジョン・ホーガンの「科学の終焉」という本が物議をかもした。現代科学は偉大な進歩を遂げたが、今後はこれまでのような発展を望むことはできない、というジャーナリスティックな論調に多くの科学者達が腹を立てた。私個人はしかしこの本については大筋において異議を感じなかった。20世紀の科学研究は邁進し大きな成果を上げたが、それは同時に刻一刻とゴールに近づいている。ゴールというものをどのあたりにおくかは人によって違うし、近づいたと思ったらもっと先までいくべきことがわかったということはあるが、進むというのは、あくまでもゴールに近づいているということである。科学研究はつねに前に進んでいなければならない。この暗黙の了解はまさにルイス・キャロルの「鏡の国」そのものである。すなわち「この国では、おなじ場所にとどまっているためには、全速力で走らなければいけないんだよ」。科学研究において進展が止まるということは、すなわち後退を始めたと同義である。だから科学者はジョン・ホーガンの論調に神経をとがらせる。

 

科学研究において必要なのは「独創的発想」であり常識を破る「画期的な発見」が求められる。最近はとくに日本の文部科学省あたりでこの種の標語が声高に語られているらしい。「独創的」という言葉を繰り返すステロタイプの(=独創性のない)議論にはうんざりさせられるが、ともあれ「画期的な発見」が毎週のように報告されており、科学研究が日々進んでいることは疑いない。しかし、これら無数の「画期的な発見」のほとんどは、ニュートン、アインシュタイン、ボーアといった科学史に燦然と輝く英雄時代のものとはかなりレベルが異なるものだし、湯川や朝永の時代のものともレベルが異なるであろう。ジョン・ホーガンの主張は、それら上位レベル(初期段階と言い換えてもよい)の発見はおそらく終焉に近づいている、というものであり、すくなくとも物理学においてはその主張は間違ってはいない、と私は思っている。

 

むろん反論はある。近代物理学は19世紀末において、同様の閉塞感が漂っていたが、今見るような現代物理学の大発展はその後におこったではないか、この起死回生の一大事件は19世紀段階では予知できなかった、現在の物理学にも閉塞感が漂いがちであるが、再びこういう事件が起きるかもしれないではないか、というのがその論拠であろう。しかし、ここを掘っていたら金が出たから同じ場所を掘っていればまた金がでるさ、というのはすこし発想が貧弱なのではないのか、とも思う。19世紀末には黒体輻射という未解決問題があり、その問題解決の中から量子論が生まれ、その結果現代物理学は隆盛を極めた。現代物理学のなかにこのレベルの未解決問題はあるか、と問えば、あれもある、これもある、という声が聞こえてくるに違いないが、果たしてどうなのだろうか。

 

誤った情報や無責任な発言で若者を惑わしてはいけない。「これからも驚異的な発見がいくらでも起こるであろう」とか「1人の天才さえ現れればこの分野は突然展望が開けるにちがいない」という類の発言は宗教におけるカルトを連想させられる。カルトの信徒は伝統宗教の教義について無知であり、その無知を利用してカルトは維持されている。科学研究において研究を発展させるためには優れた若手研究者を育てることが必要である。また若手が集まることが繁栄のしるしとなるから、当然宣伝活動をする。ただし教官は若手の将来に責任をもっているわけではない。オスカー・ワイルドのいうように「人は全く気をかけない人にはいつでも親切に出来る」。無責任な発言で鼓舞された結果、大切な時期を浪費したように見受けられる若者も少なくない。彼らは自分の選択が誤っていたなどとは考えないから、無責任な発言をした人間が責められることはあまりない。科学には無用の用ともいうべき無数の試みが必要であるから、無鉄砲なチャレンジも結構だし、それで失敗してもそれは本望といえる。ただし経験者が若者に無責任な鼓舞をするのは感心しない。

 

科学研究は人類の知の蓄積の上に継続的に成り立っている。その点は特許と同じである。いま独自にニュートン力学を再発見した個人があれば、それはすばらしいことではあるが、科学研究の業績としては評価されない。また今後、ニュートン力学や量子力学に取って代わる力学が現れるとしても、それはニュートン力学や量子力学を含むものでなければならない。むろん、多くを知りすぎて常識的になると発見は生まれないから、全てを理解してから研究をスタートしようなどと構える必要はない。しかしだからといって基礎知識に関して無知であってはいけない。適度なバランスが必要であろう。今は大開拓時代のような素朴な時代ではない、という時代認識は必要であろう。

 

科学のリストラ

 

私個人はなるべくは先のわからない方角を目指したいと思っていて、物理学科にいながら神経科学に向かっている(それ以外にも理由はあるけれども)。物理学は好きだけれども物理学研究の未来に関しては必ずしも楽観的ではない。これまで物理学者は洗練された実験に基づいて壮大な知識体系を構築し、それをもとに広範な応用を生んできた。これほど成功した学問体系も他にはない。ただし壮大であればあるだけ、変革は難しい。

 

現代科学、特に物理学の発展は、第二次大戦後の日本の発展の様子によく似たところがあると私は思う。戦後の日本は、物不足の中で物作りをして急速に復興し、輸出産業も成長して世界でも指折りの経済大国にのし上がった。その結果人々の暮らしはゆたかになり、物があふれるようになった。物不足の中で育った世代は戦後貧困の解消に貢献した工業生産活動に尊敬の念を抱いている。しかしその豊かな暮らしの中で育った若者には、物を大切に思う心が薄まってきた。現代生活には物づくりが不可欠であるが、その一方で工業が環境を破壊することもわかってきた。その結果、物づくりに対する尊敬が薄れてきた。政治も経済も、昔のようにただ一途に邁進すればよい、という高度成長時の右肩上がりの論理が通用しなくなっている。そして、物を作っても以前のように売れなくなった。そのため生産者は、新しい素材、デザイン、などによって消費者の心をつかむ工夫をしている。

 

科学研究というものもこれまでどおりの営みをつづけていてはおそらくはサバイバルできないと思う。遅かれ早かれリストラの波が押し寄せるだろう。仮に科学研究をダウンサイズする必要が生じたとすればどのように執り行うのか考えておいたほうがよい、と思う。大きな声を出しているものや大きなグループを残せばよいというわけではなかろう。どの分野を残すべきか、今後の発展の望める方向はどちらなのか。いま小分野のエゴイズムでパイの奪い合いをやっていては、守らなければならない科学研究そのものが瓦解する可能性もある。では科学の何を残すべきかの基準は何か、研究の有用性だろうか、論文数などの業績だろうか。

 

サービスとしての科学

 

これまで議論してきたのは科学の「研究」という側面であるが、それが科学のすべてではあるまい。最近は科学研究の推進に心を砕くあまり、科学の楽しさや感動を人々に伝える啓蒙や教育サービスの側面が軽視されがちだと思う。

 

宗教、古典芸能、茶道などは、古いものに価値があるという意味で科学研究とは対極をなしている。ユダヤ教ではラビが数千年前の教典について営々と解釈を試みているという。古いもの、原典に価値がある。また古典芸能や茶道では、何らあたらしいものを生み出さない。新しいものを付け加えず、原典のままに伝えることにその難しさと意義がある。新しくなくとも、それらの伝承によって多くの人々の心が満たされる、生活にうるおいがでる。広い意味のサービスとして立派に機能している。

 

哲学はどうであろうか。フランシス・クリックによると「哲学者は2,000年という長い間、ほとんど何の成果も残していない」。現代の哲学者の存在意義はしかし必ずしも新しい思想を生み出すところにあるわけではない。一般市民にとっては思想家は何百人何千人もいらないのである(私のような田舎者には哲学そのものがいらない)。それでも数多くの哲学者が暮らしていけるのは、人々が歴史上の哲学を知り、考える楽しみをもつ、という文化が根底にあるからであろう。哲学者の多くがヨースタイン・ゴルデルの「ソフィーの世界」を批判したと聞くが、それは世間常識に照らし合わせると考えが浅いと思う。数多くの哲学者が仲間の間で難しい議論を交わしても、一般市民に還元されるものはまずない。寝っ転がってつまらないテレビ番組を見ている人が、この本を読んで少しでもものを考えたとすれば、啓蒙活動としてはあまたの哲学者よりもずっと大きな寄与をしたことになるではないか。哲学の原点はサービスではなかったのか。

 

数学はどうであろうか。現代数学界での難問が解かれたという話題は我々にも多少の興味を引くものの、しょせんは無縁である。それよりも既知の問題をパズルとして楽しむのが一般市民の数学の楽しみ方であろう。数学というものがビジネスになっている一番の理由は、ものを考える訓練や計算技術などの教育サービスにある。現代数学の研究者もこれを忘れるべきではなかろう。数学にまるっきり興味を示さない人が多い現実を鑑みれば、百年前までの数学のユーザーの私でさえも上客に入る。

 

それでは自然科学はどういういう理屈でビジネスとして成立しているのか。1つは先ほどもいったように応用の存在であろう。現代社会が豊かになったのもこれら自然科学の発展のおかげである。工業や医療に直接関連する科学研究はそういうわけで市民権を得やすい。研究者本人が内心どう思っているかはともかく、そういう分野の研究者は研究費の申請書で、科学研究の有用性、実用性を訴える。

 

また仮にその分野が応用に直接役立たないとしても、工業や医療など応用に関わる人々を育てるにはこれら科学教育が不可欠である。工業や医療に直接携わっている人たちが基礎科学を教えることも出来るが、餅は餅屋、科学の教育は科学を専門に育った人が望ましい。たとえば工学部の教官のなかにも物理学を教えることのできる優れた教育者もいるが、不適切な例も少なくない。不適切な教育を行うと、それはやがて専門教育にも悪影響を及ぼす。このようなレベルの教育サービスというのは社会に直接還元されるものではないので、理解されにくいが、インフラストラクチャーのようなもので、ここを軽んじ始めるとやがて社会全体に取り返しのつかない事故など悪影響がでる。大学から教養部が消えていったことは憂慮すべき事態だと思われる。ともあれ、この教育能力というのは現代の自然科学者の重要なセールスポイントである。

 

最後に重要なファクターはやはり一般市民へのサービスとしての「文化としての科学」という側面である。たとえば人は夜に星を見る。そのとき地球、太陽系、銀河、宇宙の成り立ちを想像する。その際に科学研究の知識が加われば会話も豊かになるであろう。宇宙のことを考えていくらのものじゃ、というのは品のない発想ではあるが、(少数にせよ)宇宙論がビジネスになる理由の1つには、このような文化的な側面がある。

 

たのしい科学

 

科学すること、科学を知ることは楽しい。やはりその原点に帰着するような気がする。科学を啓蒙、教育するためには科学を楽しんでいなければいけない。少数の研究者が巨額を支配する巨大科学よりは、小さなスケールでも多様な研究がなされる方が社会として豊かだし科学としても健全ではないか。最近、専門分野において「なぜだろう」という素朴な疑問が語られなくなってきて「業績」ばかりが強調されているように思える。また、科学者は専門の研究業績を追求するあまり、同じ学問分野でも自分の専門外については無知になってしまった。「空はなぜ青いのか」、「ロウソクはどうやって燃え続けているのか」というような「子供の科学」への興味を失ってはいないだろうか。これまでの科学研究の業績とは一点突破型のものであって、そこには創意工夫が必要だが、科学全体に対する総合的知識はあまり必要がない。今後は科学知識の統合をめざす活動も評価されてよいと思う。そのあたりに「たのしい科学」が生まれる可能性があるように思える。

 

参考文献

 

ジョン・ホーガン「科学の終焉」(竹内薫訳、徳間文庫、1997 )

佐藤文隆「科学と幸福」(岩波書店現代文庫、2000)

篠本 滋「脳のデザイン」(岩波書店、1996)