神経回路学会誌 (1998) Vol.5 No.2 巻頭言

これからどこをめざすか

京都大学理学研究科 篠本 滋

1993年に英国へ長期出張に出かけて以来、子育てに追われて5年の長きにわたって神経回路学会に出かけていない。子育てそのものは楽しいのだが、なにかと自分の動きが制限される。しばらくは学会活動ができない、という拘束条件のもとで、ぼくに何ができるだろうかと考えて、神経生理学などの基礎勉強をすることにした。この勉強のおかげで「脳のデザイン」(岩波書店、1996)という神経科学の入門書を書くことができた。自分で言うのもなんだが結構良い本ができたと思っている。

研究の前線を離れた結果、それまでには考えてもみなかったことを感じるようになった。専門家の間で評価されている研究をみても、オタクの間でほめあっているだけではないのか、という冷めた感覚を抱くようになったのである。神経回路学会での研究発表について伝え聞くときも、オタク研究だと感じることが多い。ぼくのこの感覚は錯覚にすぎないのだろうか。

80年代中頃に始まったコネクショニズムは世界中の研究者を興奮に巻き込んでいったが、その基本モデルの多くはすでに70年代以前に提案されていたものである。だから、コネクショニズムにおいて新しい研究が始まったとは言い難いかもしれない。コネクショニズムにおいて質的に新しかったことはというと、様々な専門分野から研究者が参入したおかげで、研究者が異分野を意識するようになり、互いに学び吸収しようという気運が高まったという点ではなかろうか。つまり、コネクショニズムの最大の成果は、異分野をコネクトしたことにある、とぼくは思っている。その結果、理論は現代的に体系化されていった。コネクショニズムは確かに一時代を画したといえる。

しかしその後も押し寄せる論文の波はおさまらず、無数の数理モデルが提案され、再提案され、分析され、再分析されていくという状況に陥ったことは否定できない。専門分野をタコツボから引っぱり出すことに成功したコネクショニズムは、その後は皮肉にも自ら細分化し、タコツボ化をはじめたのではないか、という印象を受けるのである。ぼく個人は90年の特別講演で甘利先生にカミツカレタことがきっかけになって、その後数年は学習理論を楽しむことになった。学習理論は筋からいって神経回路網モデルの系統とは別物だから、ぼくは一応別の世界にのがれたつもりになっていた。その学習理論もしかし、できそうなところは現在までに数理オタクが平らげてしまった感がある。もちろん、その成果の多くは役に立たない漸近理論と不等式ビジネスであって、本当に重要なところは未解決のまま残されているような気はするのだが。ともあれ、このように振り返ってみると、この10年で神経回路網理論が大きく発展したことを実感する一方で、前線の研究がオタク化の一途をたどっているという感は否めない。

要はこういうことかもしれない。何をやるべきかという問題がうまく設定されたということは、かけっこでヨーイドンとやったようなもので、あとは足の速いヤツが勝つさ、という世界なのである。足がおそかったり、スタートが遅れたりするとあまり楽しいレースにならないのだ。先に走っている人のリストをつくって自分がどのくらいの位置につけているかを調べながら走らなくてはならない。走っている人はしかし、走りながらでもよいから考えてみよう。なぜこのコースを走らなければならないのか、だれに走れと言われたのか、実は走るのをやめて運動場の外に散策に出かけてもよいのではないか。外を見渡せば、豊かに草花のしげった野原があるのではないか。

神経回路網研究において無数のモデルが提案されたのは事実ではあるけれど、それらはアインシュタインの言うところの「板のいちばん薄い部分をさがし、そこに無数の穴を開けるような」研究なのであって、数の割には広がりはないのかもしれない。考えてみれば、神経回路網モデルはこんなにたくさんあるのに、そのどれかが脳神経系の知られざる特性を明らかにしたという話は聞いたことがない。もちろん「この領野の中身はこうなっている」といった講釈はゴマンとある。しかしそれらのどれ一つとして何かを証明したというわけではない。

頭の単純なぼくは、これまでずっと、神経回路網モデルの「ニューロン」というのは脳内の神経細胞を表しているものだと思っていた。多少なりとも頭のある人はそんな馬鹿な話を信じていなかったのかもしれない。しかし今頃になって「神経細胞はモデルニューロンとは違う」ということがささやかれているのをみると、同じ物だと思っていたのはぼくだけではなさそうだ。「違う」とするとしかし、これまでに現れた幾千幾万の「神経回路網モデル」はいったい何だったのか。それは脳神経系の働きのメタファーという「方便」として受け入れることのできる程度の「うそ」なのか、それとも何もかもを初めから考え直さなければならないような「うそ」なのか。

数理オタクになりきる前に考えておくべきことは、実はたくさんありそうだ。だから、みんないろんな方角に向かって散策してみようではないか。ぼくも久しぶりに研究でもやるか、という気分になりつつある。ただし、こちらがおもしろそうだからみんなそろってこちらに行きましょう、などと言うつもりはない。いろんな人がいろんなことをやっている、という状況が健全なのだ。日本神経回路学会の宝は人材の豊かさである。才能もしかりであるが、個性の豊かさが、この学会の魅力である。

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