はだかの王様の着物

京都大学理学部弘報 (1998) 149

物理学教室 助教授 篠本 滋

教授会の人事案件にて候補者の調査報告がはじまると、さて、とばかりに雑談がはじまる。黙々と自分の原稿に筆を入れる人もいる。居眠りをはじめる人もいる。自分の関連分野の話なら多少は理解できるものの新鮮味はないし、異分野の話はというと難解で理解できない。数学者の業績を聞いて生物学者が投票したり、物理学者の業績を聞いて地質学者が投票したりするという前提を知っていながら、細かな迷路のような紹介を準備する人たちの神経がわからない。もちろん、教養あふれる人というのはどこかにいるものだから、どれもこれもぜんぶ理解できる人がいないとも限らない。また仮に多くの人が報告の詳細を理解できなかったとしても、理解できなければ投票してはいけないという決まりはないから不都合はない。報告というものは、それがもっともらしく響くというだけで、その目的を達したものと考えることもできる。たしかに私は調査委員会を信用して、居眠りをしているし、今後も居眠りをするにちがいない。しかしである、どうせ話すならもう少しコンパクトでわかりやすい話を準備できないのだろうか、とつぶやきたくなるのも事実である。

私は脳神経科学に興味を持っている。脳神経科学は、神経生理学、解剖学、分子生物学、心理学、工学、物理学などが合流して形成されつつある学際領域である。この関連の研究会では、様々な分野の人たちが入れ替わり立ち替わり、様々な専門用語を用いて講演を行っている。はじめて参加した人はこの用語の氾濫に驚く。自分勝手な専門用語が飛び交っているという点では、学際領域の研究会も教授会の調査報告と大差はない。しかし教授会と違うところもある。学際領域では、それを構成する各小分野そのものの存在意義が問われている、という緊張感がそれである。小分野の中で自分の研究の位置づけを示してみせるその前に、学際領域全体の中で自分の属する小分野がどう位置づけられるかを示す必要がある。聴衆の多くは、じつは後者のほうに興味をもっているのである。こういう場にいれば自ずと、異分野の人たちに自分たちの考えを伝えることの難しさを自覚することになる。この異分野交流の経験をふまえて、私は脳神経科学の入門書「脳のデザイン」(岩波書店)を著した。私はこの著作を通して様々な学問分野の相互の関係に思いをめぐらせ、外の世界を眺める楽しさを味わうことができたが、専門用語をひかえて、わかりやすい表現を考えたり、うまい比喩をさがしたりすることは決して易しいことではなかった。安易に面白おかしさを求めると質が落ちる。質を落とさずにわかりやすく説明するには才能がいるようだ。

学際領域とは対照的に、それ自体で閉じた空間を成している専門分野も少なくない。その分野の内部では、その専門分野そのものの存在意義が問われることはまずない。研究者はその中で認められようと努力しているけれども、その専門分野の外から見れば、研究の意味さえわからないし、またそれが問われもしない。大学院生としてその専門分野の中に育ち、さらに研究者としてそこで暮らし続けていると、この外に空間があることを感じなくなってしまうのだろうか。自分たちの専門的な話が異分野の人にも通じているという錯覚をもっている人が多いように思う。教授会の調査報告はこの感覚で準備されたものが多い。この状況は、例の「昔からそうだった、今だってそうだ、これからもそうだろう」という類のものなのだろうか。確かに昔からそうだったのだろうが、状況は悪化しつつあると私は思っている。科学が難しくなったというのが直接原因であろうが、それ以外にもこの傾向を助長している要因があるように思える。

最近、業績主義の叫び声が大学の中まで侵入してきた。研究の「業績」は、論文数、論文の被引用回数、受賞などで測られるようだ。そうなると、異分野の研究者に自分の研究をわかりやすく紹介したころで自分の論文の被引用回数が増えることはないし、異分野の研究を理解したところでそれが自分の研究に直接役立つこともないから、研究者は外の世界には目もくれず、こまねずみのように働いて論文を大量生産することを目標に据える。この努力も、その成果がやがて専門分野の外に反映していくようなものであれば救いはあろう。もしこれが、たこつぼのような専門分野の中で、ごく少数の研究者たちの自己満足のみに終わるものであるとすれば、むなしい。

はだかの王様の物語の中で「この美しい織物は、ばかな人たちには見えないのです」と言った職人たちは嘘をついていたのだろうか。学問の世界では、研究者たちは嘘はついていないのだろうが、その立派な「業績」は、「ばかな人たちには見えない」、という点では、はだかの王様の着物と同じようなものである。

大学の中に侵入しつつある業績主義は、このように専門分野内で論文を大量生産することを助長してはいるが、分野のあいだの関係を再考したり、学問の分野構成について検討するような方向にはまだうまく働いていないように思える。もちろん、学問分野の構成を検討するというと、各専門分野を、役に立つか立たないか、といった基準で測ることに通じかねないから注意が必要である。私個人は、無用の用というのかどうか分からないが、学問には性急に存在意義を問われない空間があってほしいと思っているし、特に大学はそういうところだと思っている。ただし「あなたの研究はわたしの生活に(知的好奇心も含めて)どのように関わっていますか」という疑問は健康な発想であって、その種の質問を慎まなければならないとは思わない。そんな素朴な質問から始めてもよいから異分野にアクセスすることを繰り返していれば、やがて外の世界が見えてくるのではないかと思う。