(サンプル)次郎とおさるさんの関係
鏡、その2(1歳7カ月)
ぼくとお風呂に入る前に裸になって鏡を見る。ぼくがふざけて「あっ!おさるさんがいる!」というと「んっ!」と言って鏡に映る自分を指さしたので、ぼくは驚いてしまった。そこで「お父さんはどこ?」というと「んっ!」といって手を動かして鏡のなかのぼくのほうを指さす。確認のためにもう一度「おさるさんはどこ?」ときくと、もう一度手を元に戻して「んっ!」といって鏡のなかの自分を指さした。次郎は鏡に映っている自分の姿をおさるさんだと思っているのだ!これは驚き。
では次郎は自分はどこにいると思っているのだろう?「次郎君はどれ?」ときくと、前と全く同様に「んっ!」と言って鏡のなかの自分を指さす。この解答が前の解答と矛盾を起こしていることには気づいてはいないようすだ。ではおさるさん以外ではどうなるか、と思って「わんわんはどこ?」ときくと真横を指さす。つまり鏡のなかにはいないということだ。「にゃんにゃんはどこ?」と聞いてみても真横を指さす。鏡に映っているのはおさるさんでもあり、次郎くんでもあるがわんわんでもにゃんにゃんでもないのである。
では次郎君は自分のことをおさるさんだと思っているのか、というとそうではなさそうのだ。というのは、鏡のないところで「おさるさんはどこ?」ときくと、真横を指さす。「次郎君はどこ?」ときくと自分の鼻を指さす。だから、次郎君=おさるさん、だとは思っていない。鏡を見ることによって混乱が起こっているのである。いやはや。
この事件に驚いて、発達心理学の本を調べてみたところ、この程度の年齢では赤ん坊は鏡のなかの像を自己だと認識できないらしい。次郎くんの名誉(?)のためにいっておくが、次郎くんは決してばかな赤ん坊ではない。
後日談:1歳11カ月のときに久しぶりに鏡を見せ、「次郎君はどこ?」ときくと鏡のなかの自分を指さす。「お父さんは?」ときくと、ぼくを指さす。そこで「おさるさんは?」ときくと、前とは違って真横を指さす。次郎もついに自分の姿がおさるさんではないということを認知したのだろうか。
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(サンプル)イギリスでの保育事情
さてここですこし脇道にそれて、イギリスの保育事情について少しお話ししたい。太郎が4歳、花子が6カ月のときに、ぼくの仕事の関係で家族四人はイギリスで1年間暮らすことになった。妻のほうは会社の1年間の休暇をとりつけることに成功し、イギリスでは大学に潜り込んで勉強することになった。さてしかし、太郎と花子をその間どうするか。そういう事情もあって、この1年のあいだにイギリスの保育事情を見聞きすることになった。
まず太郎の保育施設を探すことからはじめた。その長期滞在の1年ほど前にぼくがイギリスに行ったときから調べ始めた。まず、イギリスの保育施設は空きが少なく1年以上前から申し込む必要があることがわかった。公立の保育施設もあるが午前中だけしかやっていない。日本の保育園は午前7時半から午後6時まで子どもをあずかってくれる。これに近いものとして職場の共同保育所、クレシェというものがあるが、これはほとんど空きがない。私立の幼稚園で最も長いものが午前9時から午後3時まで、と充分ではないが、ともかくも無いよりはましと思って私立の幼稚園に申し込んでおいた。保育システムはそういうわけで(不十分とはいえ)日本のほうが整っている。イギリスの女性はけっこう有能な人でも、子どもが数才になるまで仕事をやめることが少なくない。
日本でもイギリスでも問題なのは子育ての後の職場復帰の難しさだ。不況のなかでは新しい職場を探すことはもともと難しい。これは女性にとって大変大きな圧力になっていて「仕事か、子どもか」という二者択一の選択肢となってしまうことが多い。スウェーデン、ノルウェー、フィンランドなどの北欧諸国では、個人の休暇を大きく設けて多くの人に働くチャンスを与えるというシステムがうまく働いているように思われる。ただしこれにもある程度の経済的成功が必要なようで、景気が後退すると、とたんに雇用や福祉が困難に直面するらしい。
さて、その私立の幼稚園はイギリスに来る直前にやっと空きができて入園することができた。ここで幼稚園とよんだものはナーサリースクールと呼ばれるもので日本語訳は保育園となっているが、知育に主眼がおかれており、読み書きの教育がされ、概念的にも幼稚園に近いし、午前9時から午後3時までという保育時間も日本の幼稚園に近い。そういうわけでここではナーサリースクールのことを幼稚園と喚ぶことにする。その具体的な教育内容については後ほど詳しくお話ししたい。ぼくが申し込んでおいたものは私立の小学校がその付属として持っている幼稚園で、入るとほぼ自動的に途中から小学校教育に移行する。我々の場合、午後3時に迎えに行っていたのでは仕事にならないのでさらに幼稚園のあともあずかってもらうチャイルドマインダーも必要である。
チャイルドマインダーとは家庭の主婦などが幾人かの子どもをあずかる仕事。赤ん坊の花子のほうは1日中預かってくれるチャイルドマインダーを探す必要があった。ちなみにイギリスでベビーシッターと呼ばれるものはパーティなどのときに一時的に子どものめんどうを見るアルバイトのことを指す。チャイルドマインダーをさがすために、イギリスに出発する前から、知り合いの知り合い、という具合にいろいろ手を尽くしてさがし、ついにその町でチャイルドマインダーをやっている日本人にたどり着いた。彼女はイギリス人と結婚して十年来この町に住んでいる。日本語が通じると親も子どもも助かるので、是非ともお願いしたかったが残念ながら空きがないようで、結局彼女に頼んで現地の人を探してもらった。
見つかったチャイルドマインダーはこの町のコンピュータ技術者と結婚しているオーストリア生まれの女性で名前はクリスという。子どもはセオラ(女、9歳)、アンドリュー(男、6歳)、キャサリン(女、3歳)の三人。見るからに明るい家庭なので気に入って契約した。セオラとアンドリューは公立の小学校に通っている。アンドリューなどはさすが男の子で、近所の子どもとケンカをして泥だらけになって帰ってくることもあったが、太郎や花子に対してはとても優しかった。まだお母さんのもとにいるキャサリンはお茶目で多少わがままなところがあるが、花子のことは自分の人形のように大事にしようと思っている。赤ん坊の扱いがよくわかっていないので、人形なみの扱いになってしまうが、本人は精いっぱい優しくしているつもりである。普通の日にはクリスには花子だけをあずかってもらうが、太郎の幼稚園が休みの間は花子と太郎の両方をあずかってもらうことにした。彼女は子どもたちを連れてよく野原に散歩に出かけてくれる。この行動的なところがクリスの魅力だ。なかなかの美人だが、180センチメートルはあろうかという長身の彼女が子どもを叱りつける声には迫力がある。日本女性にはああいう野生味のある声は出せない。太郎もよくなついたが、あの叱り声だけは真剣にこわいといっている。
ところでチャイルドマインダーは個人契約だから、毎日朝から晩まで契約するとかなりな費用がかかった。私立の幼稚園の費用も馬鹿にはならないが、それ以上である。イギリスで妻が大学に潜り込んで勉強するぶん、チャイルドマインダーにかかる費用は妻がもつことになった。その他の生活費はぼくの給料や財団からの補助などをあてた。幸い、我々がイギリスにいた当時、イギリスの物価は日本の物価の二分の一とか三分の一といった状態であった。このように、子どもたちを人に預けることができたのは、強い日本円のおかげであった。
幼稚園が3時に終わってから太郎を預かってもらうチャイルドマインダーのほうは幼稚園に掲示を出して探した。連絡をくれたのはキャロルという小柄なイギリス女性であった。ご主人は建築関係の職人だが不況のおかげで遠くの町やフランスに出稼ぎに行ったりしている。夫婦にはフレアという4歳のいたずらっ子の女の子が一人いるが、私立の学校に入れるほどは裕福ではないし、フレアも勉強好きではないので、午前中だけ預かってくれる公立のナーサリーに連れていっている。太郎を含めて二、三人の子どもをあずかる仕事と英語学校の教師などをして家計を助けている。キャロルはクリスのように行動的ではなく、いつもたいていは子どもたちに玩具を与えて室内で遊ばせている。教育玩具などを買うのが趣味のようで、新品は高いからといいながらも中古品をよく買ってきたりする。太郎はキャロルが出してくれるあまいおやつを楽しみにしている。ちなみに、あの国のおやつはおそろしく甘い。ぼくなど、食べると頭が痛くなるほどのものもある。あんなおやつを食べているのだからさぞかし味噌っ歯の子どもが多かろうと思うのだが、あまり見かけた記憶がないのは不思議だ。
しかしともあれ、子どもにとってはこの新しい環境は、なかなかきびしいものがある。6カ月の花子のほうは言葉を持たないから問題はまだしも表面化しないが、4歳の太郎のほうは朝から夕方までまるっきり言葉の通じないところに放り込まれるわけだから大変だ。太郎は半年ほど経つと親友もでき、英語も上達したが、そこに至る道のりは決して平坦ではなかった。これについてはやがて詳しくお話しすることにしたい。この困難をなんとか乗り切れたのは運が良かったことと、心身の健康のおかげであるが、これにはひょっとして日本で保育園に預けられて育ったという経験が一役買っていたのかもしれない、と思っている。うちに帰っても家に親はいないことを、太郎は実感として知っているに違いない。
海外出張で子どもが自閉症におちいってしまう例も少なくないそうだ。自閉症、などと聞くと腰が引ける人もあるだろう。子どもが適応できない場合の危険を考えれば、親は子どもを手元で育てるべきではないか、と考える人も少なくないに違いない。特に日本ではこういう主張が堂々とまかり通る。こういう問題は「子育てとは何か」という原点にも関わることで、この問題を議論し始めたら何冊もの本になってしまうだろう。ここで説教臭い議論をするつもりはないが、大学にPTAを作りかねないこの国はこのままではちょっとアブナイのではないか、というコメントを残しておきたい。
さてぼくと妻は子どもたちの保育を通してイギリスの保育や初等教育にふれることができたが、日本の保育や初等教育と対照的な点も多く、とてもおもしろかった。私立の幼稚園に通う子どもたちの家庭は一般に裕福である。太郎に友達ができてパーティなどに呼ばれるようになったおかげで、ぼくや妻もそのクラスの生活の有り様を垣間みることができた。また花子や太郎のチャイルドマインダーの家族とつきあうことで彼らの毎日にふれることもできた。幼稚園でどんな教育をおこなうか、などについてもゆくゆくさらに詳しくお話ししたい。
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