--- シノクラブの研究内容 --- 京都大学理学研究科 篠本 滋 -------------

version4.1 (2016/08/10)

【研究観】 いま科学技術は,形式理論やトップダウンモデリング中心の「理論の時代」から,実データに基づいたモデリング・解析・予測制御を行う「実証の時代」へと変遷しようとしています.これは,工業が家内制手工業から工場制機械工業へと変遷した産業革命を彷彿させる大変革期だと思います.計測技術の発展に伴って大量の信号を同時計測することが可能となった現代に求められるのは,大規模データを自動収集し,モデルを自動選択し,現象の将来予測を行うためツールであり,その基礎を与える体系的理論であると思います.我々はイベント時系列解析の理論を作っています.
【脳科学との関わり】 脳内神経細胞はスパイク発火と呼ばれる0-1的な電気インパルス信号によって情報伝達を行っています.我々はその情報コーディングを理解することを目指しています.外界情報が脳内でどのように表現され,運動はどのように立案実行されるか,記憶はどのように形成され用いられるか,空間や時間が脳内でどのように表現されているか,ということに我々は強い興味を抱いています.最近,信号時系列の時間パターンが部位ごとに異なる脳機能と強く相関することを発見しました.

【地震との関わり】 蓄積された入力信号に応じて神経細胞がスパイク信号を発生するプロセスは,蓄積された力学的ストレスを瞬時に放出する地震発生のプロセスに似ています.信号時系列を解析するために構築した手法を用いて地震発生パターンを解析し,発生予測を試みています.

【社会事象との関わり】 神経スパイクも地震も社会における様々な事象(イベント)も,すべて点事象として単純化することにより,事象の関係性を論じるフレームワークとして統一的な議論が可能になります.

1.信号時系列パターンの分析,予測
信号の非ポアソン不規則性を測る方法を考案し,それを脳から計測された神経発火時系列に当てはめた結果,一見ランダムな信号の時系列パターンも完全にポアソンではなく細胞ごとに固有性があり,大脳皮質の機能と強く相関している,という事実を発見しました.またその特徴が異なる動物種の間で共通していることを発見しました.発生する信号に構造の違いが反映すると考え,地球上の各地で発生する地震時系列にも同様の解析を当てはめた結果,地震時系列の非ポアソン性がテクトニックプレート境界の動きを反映していることも見いだしました.

SS, KS, and JT, Neural Computation (2003) 15:2823-2842.
SS, YM, HT, and IF, J. Neurophysiol. (2005) 94:567-575.
SS, HK, TS et al., PLoS Computational Biology (2009) 5:e1000433.
XZ, TO, NM, and SS, New Journal of Physics (2010) 12:063010.
YM, et al. J. Neurosci. (2016) 36:5736-5747.

2.レート推定の最適化
時々刻々変化するスパイク発生頻度の変化をとらえるのにヒストグラム,カーネル法,ベイズ法などが用いられますが,それらによる推定結果はヒストグラムビン幅,カーネルバンド幅,ベイズ法のハイパーパラメータの選び方に依存します.これまで実験研究者はこれらのパラメータを主観的に選んでいましたが,我々はそれらをデータから自動最適化する方法を考案しました.これらの公式は交差検定のような甚大な計算コストを要しませんので実践的にも有効で,一般理論でもありますので神経科学分野だけでなく多方面で利用され始めました.状態空間法,隠れマルコフモデルなども駆使して研究を進めています.

SK and SS, J. Phys. A (2005) 38:L531-L537.
SK, TS, and SS, J. Phys. A (2007) 40:F383-F390.
HS and SS, Neural Computation (2007) 19:1503-1527.
TS and SS, Neural Computation, (2009) 21:1931-1951.
TS, SK, and SS, J. Computational Neuroscience (2010) 29:183-191.
HS and SS, J. Computational Neuroscience (2010) 29:171-182.
SS, in Analysis of Parallel Spike Train Data (eds. S. Gruen and S. Rotter) (Springer, New York, 2010).
TO and SS, Neural Computation (2011) 23:3125-3144.
TS and SS Physical Review E (2012) 85:041139.
SK, TO, REK, and SS, Neural Computation (2013) 25:854-876.
YM and SS, Physical Review E (2014) 89:022705. arXiv:1311.4035.
SS, Encyclopedia of Computational Neuroscience (Springer, 2014) DOI 10.1007/978-1-4614-7320-6_392-5.
 
3.ネットワーク特性の解析
ニューラルネットワークや,社会ネットワークなどでは,結合や関係性を通して興奮が伝搬していきます.そのようなシステムが非定常な活動を引き起こす条件や,それをコントロールする理論を構築しようとしています.

TO & SS, Physical Review E (2014) 89:042817. arXiv:1401.5186.
TO & SS, Scientific Reports (2016) 6:33321.


4.信号からの背景の推定
神経細胞がスパイク信号を発生する過程は,物理的ブラウン粒子の運動量のダイナミクスを数理化したOrnstein-Uhlenbeck process (OUP)の初期通過時刻分布で表現することが出来ると考えられていました.我々はモデルとデータの整合性を検証する方法を提案し,実際の神経スパイクデータに適用した結果,「標準的モデルとされてきたOUPモデルは実験に照らしあわせて棄却される」という結論を得ました.これは,神経細胞の入出力特性と入力信号特性に関する前提の,少なくともどちらかに(重大な)誤りがあることを意味しており,モデルの現実性を検証する実証的研究を推進するきっかけになりました.それが発展してin vivo 神経細胞の内部状態の計測からその神経細胞が受けている信号を分析する研究が始まりました.

SS, YS, and SF, Neural Computation (1999) 11:935-951.
RK, SS, and PL, Neural Computation (2011) 23:3070-3093.
HK & SS, Physical Review E (2012) 86:051903.
HK & SS, Mathematical Biosciences and Engineering (2014) 11:49-62.
5.スパイク発生メカニズムの研究
神経スパイク発生メカニズムを定量的に把握するため,実験データに基づいて神経細胞のスパイク生成の「入出力関係」を定量的にモデル化し,データ予測を行う研究をおこなっています.スパイク時刻予測において推定を最適化する方法も完成し,スイス・ローザンヌ工科大学主催の,スパイク予測コンペティションにおいて,我々は優勝を重ね,2009年には小林君がINCF awardを受賞しました.この優勝モデルであるMAT model の改訂も行っています.神経細胞はどのような信号処理をしているのか,という疑問にも答えることにもつながると思います.神経細胞は変化点を検出するマシンとして考えると最適に近いということも明らかにしました.

RK and SS, Physical Review E (2007) 75:011925(1-8).
RJ, RK, AR, RN, SS and WG, J Neurosci Methods (2008) 169:417-424.
RK, YT, and SS, Frontiers in Computational Neuroscience (2009) 3:9.
SY, HK, and SS, Frontiers in Computational Neuroscience (2011) 5:42.
HK, BJR, and SS, J. Computational Neuroscience (2012) 32:137-146.
 
6.時間空間の脳内コーディングの実験的研究
京大医学部,東北大医学部などの神経生理学研究室と共同で,空間認知および時間認知の神経機構の研究をすすめています.これらの研究は実験理論の長年にわたる研究交流の中から生まれた新しいスタイルのプロジェクトです.視覚的空間認知において眼球運動の影響が脳内で補償される機構が明らかになりつつあります.待ち時間課題遂行中のサルの神経信号の情報から,サルが行動に移るタイミングを予測する解析を行い,脳内時間コーディングについての考察を行っています.

NI, SS, SY, AT, and KK, J. Neurophysiol. (2007) 97:3473-3483.
SS, TO, AM, HM, KS, YM, and JT, Frontiers in Computational Neuroscience (2011) 5:29.
 

--- 背景:脳神経生理学と理論研究との関わり -------------------------------------------------------

脳神経系の計算能力が科学の対象として興味を持たれ始めたのは科学の歴史でも比較的最近のことである.1943年McCulloch and Pittsは,神経細胞と同様の機能を持つしきい素子を組み合わせることによってヒトの思考を再現することができる,という趣旨の論文を書き,1947年にはしきい素子からなる機械が平行移動などの変換に対して不変な空間パターンの認識ができることを示した.また同1947年には数学者のWienerが適応制御の理想を「サイバネティックス」という標語に象徴して1つの学問分野を開いた.サイバネティックスとは「舵をとる人」の意味を持ち,風向きや海の状態を見ながら船を操縦して目的の港に向かわせることのできるような適応的制御システムの構築を目指す構想を表している.1957年に発表されたRosenblattのパーセプトロンは神経細胞をモデル化したしきい素子を組み合わせた回路を用い,結合が適応的に変化することによって与えられたデータ分類スキームを獲得していくという構想でできあがっている.ここでは機械の内部構造やパラメータの詳細を人が立ち入って調節するのではなく,機械が自己組織的に変化することによって入出力関係を自動獲得する.1969年,ケンブリッジ大学で数学を修めていたMarrは学位論文において,小脳はパーセプトロン学習を行う,という仮説を提唱した.この仮説には神経生理学者も注目し,その説を確認すべく実験が行われた.その検証は容易には実現しなかったが,1980年,伊藤正男が神経生理学的検証に成功した.
パーセプトロンの出現から四半世紀が経った1986年に,認知心理学者や数理研究者らによる論文集「Parallel Distributed Processing」が出版された.その内容の豊かさが引き金となって第2次ニューラルネットワークブームが起こった.誤差逆伝播法と呼ばれる非線形最適化法を英単語の発音推定に応用したところ,それまで人工知能研究で何年もかけて作られてきた機械の能力を超える達成率を容易に成し遂げた.またこの論文集には,スピン系のようなボルツマン分布に従う確率モデルを外部情報に適応させる学習モデル「ボルツマンマシン学習」もあってその美しさが理論研究者を魅了した.この時期には別の話題でも興奮がわき起こっていた.1970年代に提案されていた記憶検索の連想記憶モデルを Hopfield が1982年に磁性体のスピングラスモデルに類似した物理モデルとして書き下したのである.スピングラスではスピン同士が非一様相互作用をすることによって多数のエネルギー局所的最小(安定状態)が存在することが知られているが,ホップフィールドモデルでは局所的安定状態をある程度自由に選択することができる.記憶検索はその安定状態に向かう緩和プロセスと考える.このモデルは1985年にAmit, Gutfreund and Sompolinskyによって詳しく解析された.一部の物理学者が脳神経科学に興味を持つようになったのはこの論文の影響が大きい.
単純な連想記憶モデルでは,神経細胞の特性を極力単純化している.数理的な興味でモデルを論じるのはよいが,このモデルが記憶課題実行中の動物の神経系における記憶保持の本質をとらえているかどうかは未だに自明ではない.神経細胞の活動やスパイク信号伝達の様子はそれまでに考えられてきたようなものではないことが次第に認識され,最近は実験データを分析することを通して,理論モデルが改訂され,新たな研究テーマが生まれている.理論神経科学もこのように,より実証的な方向に進化している.
参考図書

[1] 篠本 滋  「情報の統計力学」丸善(1992)
[2] 篠本 滋  「脳のデザイン」岩波書店(1996)
[3] 篠本 滋  「情報処理概論---予測とシミュレーション」岩波書店(2002)
[4] 外山敬介・甘利俊一・篠本滋 「脳科学のテーブル」京都大学学術出版会(2008)
[5] "Analysis of Parallel Spike Train Data" (eds. S. Gruen and S. Rotter)
(Springer, New York, 2010). Chapter 2: "Estimating the firing rate".




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